新宿サムデイ、僕のセクステットです。
今回は新曲が三つ。
オリジナルの「Pedestrian」をアレンジしたもの、ホレス・シルヴァーの「Nutvill」にモンクの「Evidense」。
それぞれに面白い演奏になりました。
最近やっていることですが、自分のバンドの場合は曲の和音進行は極力覚えます。
もちろん時間的に無理な場合もあります。
それほど記憶力に恵まれている訳ではありませんから。
頭の中に音があれば、即興演奏中に楽譜を見ずにすみます。
その分、周りの音が聞こえます。
というより、そうしないとサウンドしないからです。
楽譜を見ていると、音のひらめきよりも経験上既知のスケールをはめ込んでしまう可能性があります。
頭の中に聴こえるメロディーに、スケールが優先するのは間違えています。
レスター・ヤングを再確認しています。
その時代の表面的なスタイルでは無く、普遍的な音楽の創造に関してです。
ですからウェイン・ショーターにも興味が尽きません。
何故なら、彼らはその根底において類似点が多いからです。
またパーカーやモンクなどにも、聴きとれる部分です。
現在の僕のやり方は、ビバップからモード的な考え、またペンタトニック・スケールが混ぜ合わさることによりできているようです。
もちろん学生時代に練習した近代フランス音楽も、その和音とスケールににおいて大きな経験になっているようです。
今晩の曲目で、少し難解にとられる可能性のあるオリジナルを演奏しました。
受け入れられるか心配でしたが、これは杞憂でした。
当たり障りのないノリノリの曲や、美しいメロディーのスタンダードばかり演奏するのは、かえって観客の皆さんを愚弄しているのです。
僕たちはお客さんの感性を信じます。
また僕らも、具体的な言語(音楽的に確立した方法論)を用いて演奏せねばなりません。
自分が一番後悔するのは、次のような場合です。
それは、やりたい演奏をやりたいようにやって受け入れられなかった時では決してなく、中途半端に妥協して良くない結果になった時なのです。